天命と救済

私達には二つの天命が御座います。

一つは、天から与えられた使命。もう一つは、天から与えられた運命。
前者は、この世に生まれてきた果たすべき役割の事、後者は人の意思を超えて身の上に起こる巡り合わせを指します。天命とは、私達の意思ではどうする事も出来ない、見えない大きな力によって定められている事です。
巡り合わせとは、必ず生きる者、形ある者に御座います。

ですから、その天命に引き寄せられて、私達は「出会う」事をし、出会った事によって、様々な巡り合わせが起こります。

「この人に出会わなければ」と思う事もあったかもしれません。ただ、関わる事も、その人達の天命と言えるでしょう。
関わる事で、良くなるも悪くなるも、その人という存在の運命になるからです。
その人と関わりがなかったとしても、必ずその天命に、ある程度の同じ立場や場面に引き寄せられ、それを乗り越えて成功するなら、成功致しますし、失敗してダメなら、それまでなのです。それは、本人が望もうが望まないが、その人自身がその運命を自分自身でどうにかしないと、その場所に居続ける事となります。
ただ、その逆境の最中で私達にも慈悲が与えられる事があります。
それにより、変化をもたらすチャンスを与えられるのです。
その慈悲の結果、苦しむ事もあるでしょう。なぜなら「慈悲の形」というものは様々で、救われる事だけが慈悲ではないからです。ただ、そこで苦しむ事で、成長に繋がる事も御座います。
其の為にそれを見越して、苦しみを与えられる事もあるのです。
慈悲とはどこにでも存在をしております。
感謝とはまた異なり、慈悲は悲しい場にも、楽しい場にも存在致します。
情けとも異なります。食事の場にも慈悲は存在を致します。例えば、肉を食べたとすれば、殺してその肉を食べ、自分が生きている事自体も慈悲になりますし、その肉を残さずに召し上がる事も慈悲となるのです。
つまり、私達が生きている以上、常にあらゆる所に慈悲は存在しており、自分たち自身にも与えられ続けているのです。何故一人ひとりに与えられる慈悲が異なるのかと言いますと、それは私達一人ひとりが皆、各々の気質や経験があるから、育ってきた環境も異なり、価値観や考えも変わっているからです。一つの同じ事を見ても、受け取り方が異なる事も御座います。

そして同じものを見ても、気づく・気づかないの器量の差も御座います。すなわち、この世の中に、私達は何億通り以上もの無限の個性を持って存在しているのです。

目に見える現実には、「起きた出来事」として共通して私達には見聞きされますが、その一つの出来事においても、
一つの事が要因であるわけではない、という事です。「この人が、この人達が悪いから」という事が間違いなのです。人は、人の良い部分より、悪い部分の方に気づきやすい所が御座います。「本当は、良い人なんだけどね」とよく耳にする事でしょう。
これは、私達人間がこの社会を生きる中で、その人の悪い部分が自分と同じだから気づきやすく、その人の良い部分を視野から省いて悪い部分にスポットを当てているからです。悪い部分に感化されて、何かを言ったり、と行動に移します。

その結果何が起こるといいますと、その結果失うものがあるという事です。
そして、その人の良い所、自分の悪い所等に気が付くチャンスを捨ててしまっているという事です。
そしてその失う事に気づかず、私達は生きております。ですから、この社会を生きていて、満たされている人が一人もいないのです。
そして、それにすら気が付かない、その寂しさ虚しさから欲に走る、そういった悪循環が続いております。
その結果何が起こるかといいますと、同じ人間同士での争い、弱肉強食の文化、大量の不要な犠牲、恐怖に支配された世界が形成されていくのです。
そして人間の心の病魔が、私達の身体を蝕み、堕落をしてまいります。その結果、最終的には悪魔憑きが生まれてくるのです。冥府魔道という言葉が御座います。

怒りと執念に駆られる事です。復讐に満ちた感情を伴い、怒りと執念に溺れる事を指します。
相手を潰す、と強く悪い信念になります。
根本的に復讐という行為は、復讐しか生みません。これがまた復讐を生み、人間全体を一気に堕落させる恐れがあります。
そして、悪魔はこの堕落した思考や欲求に突き進むように人間に囁き、その欲求を満たすように見せかけて、魔道に引き込み、完全に入り切った人間を食っております。そして、悪魔崇拝とは、この冥府魔道に向けて進む考えとなります。
現在の世の中は、悪魔崇拝がかなり広がっておりますが、このまま完全に広がり切ってしまいましたら、悪循環しか生み続けません。
幸せも何もない、地獄のような世の中となってしまいます。
ただ、この冥府魔道の中にも、愛は存在しております。なぜならこれらにも慈悲が存在するからです。
恨みの中にも愛情も隠されているから。怒りや憎しみで冥府魔道を生きる中には、最後は仇を討つという事にも、
その中には愛が存在しております。どんなに悪い者や物、形にも慈悲の深さや愛情が存在する事を、私達は忘れてはなりません。
悪魔にも、悪魔からは与える慈悲は存在は致しませんが、悪魔そのものが、周りからの慈悲を求めている所も御座います。
悪魔は元々、神の使いや下部、といった存在で御座いました。
それらが堕落して、悪魔として存在し、エネルギーを吸収しないと滅びてしまうから、必要な犠牲として、生きる者を食っております。ですが、その繰り返しをしていても、苦しいと感じている悪魔も存在しているのです
そして、そんな悪魔を神として、信じている人々もおり、悪魔にその時々で救われていると感じている人々も確かに存在しております。全ての者を救済していくとなると、非常に難しい事です。ですが、不可能という事は無いのです。
今は完全に、この世に存在する者全てに苦しみが存在する社会です。得るものより、失うものの方が多い世の中でしょう。

この世には、この世界を変えたいと心から願っている者達と、救われたいと思っている人々が存在しております。
あらゆる立場の全ての人々が、この世界に変わってほしいと願っております。
それは、どの立場から見ても、共通しているという事です。悪人正機という言葉が御座います。
この世にいる人間は本当に、完全な善と悪に分けられるのか、という事です。

悪はただ闇雲に潰す事が正解なのでしょうか。それでは、繰り返すだけなのではないでしょうか。私達の人生は、今は一度きりの人生と思う事でしょうが、このまま来世にも繋がれて行きます。
人間関係も、全て、です。

では、全員が救われるためには、何をしていくのが良いか、という事です。