人間のエゴと善悪について

私達人間には、必ずエゴの部分があり、切っても切り離せないもので御座います。
エゴは、人間の欲から来るもので、この世に存在している人の数だけエゴが存在しております。
このエゴが、人間が悟りを得る事の邪魔をしており、世の中の次元を低く低くしております。
そして修行においても、エゴをいかに取り払えるかで、霊的な進歩、そして霊能者であれば力を強くしていく事が出来るのです。
私達人間は、善人か悪人かであれば良い人であるべきで、死後は天国や天界に行きたいと思っております。
魂の成長を目指す修行の為に、肉体という自由の効かない器に魂を結び付けられてこの世に生まれてきている訳ですが、この世に生きている事が本来は修行になるはずですが、この世に生きているうちに、人間は欲望に魅せられてエゴを生み出してしまうために、その結果挫折を味わう者もいれば、楽しく幸せを感じて過ごすものも存在しております。
世の中は全て平等であると言いますが、私達の持つもので平等なのは唯一今ここに流れている時間という存在だけなのです。
後は人間によって、それぞれが歩む道、運命の違いが存在しております。
しかし、人間という生き物は、弱い存在であるから必ず神にすがるような出来事に出くわす事になります。
自らのエゴを満たしたいのに満たせずに、神頼みになるのです。そして自分が死んだ時には、天国に行きたいと願います。
魂の成長を考え、生きているうちから色々とやっている者は魂が成長していきますが、全く信仰が無いものやなんとなく流されて生きている者は、魂の成長は全く無いですし、自分自身の成長も無いという事です。
自分が正しくて周りが悪い、自分はいいとこどりだけをしていけばいい、そう思い続けている者は、一生のうちに一度たりとも反省の瞬間等来ずに、成長しないまま低次元を彷徨い続けます。
自分が助かりたいから長い物に巻かれる、自分の利益を常に考えてコロコロと立場を変える、いざと言う時に助かりたいから、いざと言うときにいい思いしたいからと。そして人は一瞬で目の前の事を信じ、大勢が言えば言うほど確信を覚え、突然態度を翻したり、簡単に他者を馬鹿にする生き物です。
私達人間は、自分の立場を弁えずに、次元の低い計算を常にいたします。そして自分さえ良ければ良い、周りが大変であれば知らんぷりで、人の不幸は蜜の味と悪魔的な考えも持ち合わせております。
しかし、天国に行きたいとは皆考えるのです。修行を修行とも気づかず、単純にそう思うのです。
非常に浅ましく、軽薄な存在になりやすいのが人間という生き物です。そして、その事自体も、神には全て見透かされております。ですが人間は、自分は良い人であって、天国に行きたいのです。
勿論、それは死後の世界を信じている者の中での話ですから、全ての人間が目指している訳ではないですが、人が何故天国に行きたいと考えるかというと、天国に行きたい欲望がそうさせるのです。これもエゴの一種です。
人が楽をして暮らしたいのは、人間が自分という存在が一番大切で一番可愛く、嫌な事から大切な自分を避けようとする生き物であるからです。
ですから楽して楽しい事に興味があるのです。自分が傷つきたくないから、嫌な事から逃げる性質を持っております。
好逸悪労(こういつあくろう)という言葉が御座います。
私達人間は心のどこかに必ず持っている考えです。
これは、苦労する事を嫌がり、楽して暮らす事だけを求める事です。
楽とは、極楽の事を指します。
極楽浄土とは、修行の末に行きつく天国の事で、そこに行きたいと願う人は多く存在致しますが、他方で、苦労して生きている間に修行を好むものは、中々存在致しません。修行で課されている試練に対しても、その試練の意図を察する事も出来ず、自分なりの感じ方で投げ出したり切り捨てたりして、全く気付かないという事もある事でしょう。
よく、嫌な事には関わらない、という人間は生きるのが上手いですとか、賢いと言われがちですが、魂の本質からすると、それは全く見当違いという事です。勿論、無駄な事はわざわざ行う必要はございません。
ただ、自分が関わりたい部分だけ関わり、面倒事や自分の身に降りかかると感じたら知らんぷり、という事は、人間としてとても浅はかで程度が低い事の表れであり、魂の成長に対して、立ち止まってしまっているか、進行方向から逆走をしているかといった行為になるのです。
都合のいい時だけ近づいて、あとは知らんぷりで様子を見るような行動も非常に浅ましい行動です。いざとなれば利用しようとする人間はもっと低次元と言えるでしょう。
そして、そうやって生き続けていても、人は天国に行きたいと願います。
そして何故人は天国に行きたいと願うかというと、良いところに行きたいと願うから、自分は良くなりたいという欲から生まれる考えです。
また、単純に楽して好きな事だけして生きていきたいと、死後の世界ではなく現在の人生において考えている人間もおります。
このように死後の世界を分かっていない者は論外となりますが、これも自分が一番大切という人間の本質の現れです。
一意功苦(いちいこうく)という言葉が御座います。
人は一人一人欲を持って生きておりますから、欲が満たされないと楽を感じず、悩みます。
周りには同じように欲を持つ存在が沢山おりますから、全ての物事が自分の欲のままに進む事もなく悩み苦しみます。
ただ、私達人間は、一人では全ての欲を満たす事は不可能でありますから、この悩みが尽きる事は御座いません。
そして、その一つ一つの欲を満たすためにはどうすればいいのか考え、生きております。
この考えには、「エゴ」がとても強く、時には周りを蹴落とすような悪魔的な考えも含みます。
人の成功や立場を奪うような考えも同じくです。今の時代の人々は、愛を持たずして自らの欲が満たされずに飢え切っており、心の貧しい日々を過ごしております。そして心のどこかで皆助かりたいと願っているのです。
誰かが助けてくれないか、良くしてくれないか、自分だけでも助からないか。
霊的な修行においても、悟りを得るには、このエゴと向き合い、打ち消す事が非常に難しい事とされております。
何故なら人は、考えたところで自らのエゴが自分自身のどの部分にあたるか気づききれないからです。
では、エゴが沢山ある人間が悪いのでしょうか。
人間は確かにエゴがあればあるだけ次元が低く、悪い方向にばかり進んでいきます。
霊性は衰え、一般の方でも何も気づく事が出来ず、周りが見えず、といつまでも低迷を続けます。
ただ、この悪い方向に進んでいる人間が気づきを得たらどうなるでしょうか?
強悪強善(きょうあくきょうぜん)という言葉が御座います。
これは、極悪な人物が心を入れ替えると、ものすごく善人になるという事です。
悪に精通したものは、善にも精通しているとも言えます。
悪と善というものは常に紙一重であります。
何故なら、悪を極めるという事は、善が何かを理解できるからです。
一度徹底して悪に陥ったものは、気づきを得る、また裁きを得るきっかけさえあれば、自分自身がいかに全てを間違っていたか、猛烈に悔いて気が付く事が可能になります。そこで悪を全て一度通った者は、一つ一つの全てに対し、何が間違っていて、どうすべきだったか、本当の善とは何か、を真剣に向き合って考えた時に気づく事が出来るのです。
以前ブログに記載いたしました、「自分も同じだから、人の悪いところばかりに気が付いてしまう」という事と原理は同じです。
元々悪に進んでいたからこそ、悪とは何か、そしてその真逆の善とはなにか、を知る事が出来るのです。
中途半端に善悪を行き来するような者や偽善を貫こうとするものには、自らを省みて理解する材料が果てしなく少ないという事です。
気づきを得た悪というものは、同じ悪に進もうとしている迷える人々を諭し気づかせ、良い方向に背中を押していく事も可能です。
何故なら一度自らも通った道で理解が出来るから、偽善ではなく本当の善として導く事も可能なのです。だから紙一重と致します。
ですから、悪い者こそ、本当の意味で慈悲や寄り添う事が必要という事です。
そして悪の中にも、ただ単に欲深い者とは別に、苦しみ慈悲を求めている者達もいるという事です。
今の世界は、あらゆる存在が満たされない、苦しい環境にあります。
正義が勝ち、悪は敗北する、そういった定義があると思いますが、この世界において、慈悲というものは万物に平等に存在をしております。
時間と並び、私達全員が与えられるものになります。
慈悲の形は様々です。勿論悪を極め、欲深さが尽きないものたちに対しては、手を下すという形で慈悲は存在しておりますが、悪の道に進むものでも、チャンスを与えられる者も居るという事です。
常に私達人間は、試されているのです。
そしてそのチャンスを掴み取るか否かは、本人の器に関わっております。
そしてその先の、掴んだチャンスによりどう変化していくか、も本人の器という事です。
これは、何が大事かと言いますと、この世に存在する全ての悪が排除されるべきではないという事です。
悪は悪、正義は正義として、エンターテイメント作品においても表現をされており、正義が必ず勝つ、悪は滅びるとハッキリと切り分けられておりますが、悪の中にも可能性が秘められており、善の中にも、間違いが存在しているという事です。
善と悪をはっきりと区別する事自体が間違いなのです。
そしてこれらは、一人ひとりの気付きにかかっているという事です。
この世界の命運は、私達人間一人一人にかかっているという事になります。