悟りの境地

私達は皆、転生を繰り返しながら、魂の修行を続けております。
人は、一生を一度のものとしてその生涯を好きな事を沢山して謳歌して死んでいきたいと考えるものですが、本来は今、現世に存在していて与えられている時間というものは、肉体という呪縛に繋ぎとめられた、苦労を重ねて修行を続けていく時間なのです。
この生きている間に如何に修行するかで、死後魂の身となった時にどう過ごす事が出来るか決定致します。
霊能力を得て扱うのに大切な事は「悟り」です。悟りというものは、非常に深いもので、簡単に得られるものではないですが、修行をしていく中で皆、自分自身を内省致しましたり、物事を客観的に見て判断致しましたり、努力を重ねて成し遂げたり、時には挫折したり、衝突をしたり、一生のうちに経験するあらゆる物事から気づきを得る事で、悟りが深まってまいります。
悟る事は、非常に難しい事です。なぜなら、私達はどんなに物事を考えようとしても、自分自身を内省しようとしても、どうしても自分の主観が抜ける事なく、
悟ったつもりになっていても、全然理解ができていなかったり、どんなに人を好きになったり、嫌いになったり、悪だくみをしたり、恰好をつけていたとしても、空腹を感じたら食べ物を口にせずにはいられず、眠くなれば睡眠をとらなければ耐えられない、どれだけ色々考えても、いくら知恵を使おうとしても最終的には本能に抗えず、肉体の欲求に従順な生き物なのです。
其の為、私達は苦しみから逃れたい一心で、楽な方、楽しい方を選びます。その環境の中で、どれだけ澄んだ心を持って悟りを深めていけるかという事です。
強い霊能者になるには、必ずこの道を通る必要が御座います。なぜなら、そうしないと真の力を得る事が出来ないからです。
そして、だからこそ、以前も記載しておりましたが、欲に絡めた目的で力を使おうにも発現する事はないのです。
例えば現代風に言えば、宝くじを当てたいとか、そういったものです。
この悟りには、段階が御座います。下のランクから挙げてまいりますと、
<最下層>
*一般
ここはほぼ悟りが無いに等しい者達です。彼らは死後、低級霊となります。低級霊ですから、下品で浅ましく、人間を騙して乗り移り、肉体を得ようと試みます。
其の為、修行をしようと瞑想をしている者に対して、高次元の存在のふりをして繋がろうとしてきたりも致します。また、数はかなり存在しており、例えば耳元で念仏が聞こえる、汚い言葉が聞こえる、といった方もおられますが、この低級霊の仕業で御座います。
<中間層>
*修行僧
*大使
*即身仏
*即神仏
これらは、修行で一般の人達が何とかなれる範囲の境地になります。このあたりを少しずつ進めていく形です。
これらの存在は、死後は天国に行きます。いわゆるここを浄土と言います。
無名の天使達等は、即身仏あたりに値いたします。
<上層>
*下部
これは、仏国土に行くとされているもので、ここから先は、天界に行く者達となります。一般の人々も、努力次第では天国から天界にランクアップする事が可能です。
ここの領域からはかなり特殊となり、ソウルレイが複数存在していたり、転生するごとに魂が現世に送り込まれるようになります。
(天国の人々は、前世の霊体含めすべてが存在したままになっております)
名前のある強い天使等はここに当てはまります。悪魔も元々ここに位置しておりましたが、悪魔になってしまった事で、真逆の方面へ突き抜けてしまいました。
<最上層>
ここから先は補足のようなものですが、神の領域です。
*神
神国土
*菩薩
*如来
無限界
これらのランクにより、繋がる存在も異なってまいります。
*修行が全く出来ていないものは低級霊とつながってしまいます。低級霊としか繋がれない、が正解です。(力がある者も、気を付けないと繋がる事がある故)
*アセンテッドマスター
天界と繋がる通信道具のようなもので、従士人のようなもの。所謂中級霊です。
彼らは天界の高級霊と繋がる為に、直接高級霊とまだ繋がる事が難しい者の間に入り、人間→アセンテッド→天界、天界→アセンテッド→人間と介して通信の手助けを致します。
伝言ゲームのようなものですから、高級霊と直接繋がるよりも、精度は多少落ちます。ですが、本人の修行次第で、高級霊と繋がるようになる事も可能となります。
*高級霊
かなり強い霊能者が一般的に繋がる存在です。
*ハイヤーセルフ
神が繋がる存在です。
余談ですが、菩薩や如来は、決まった悟りを得た者以外とは繋がらないようになっております。
どんなに繋がったとしても、あとはいかに自分自身の肉体的なエゴを捨て切れるかにかかっております。
菩薩や如来とは一体どんな存在かと言いますと、人間的な考えを一切持たない、神としての考えしか持たない存在です。
ただ中には特殊な存在もおり、彼らは人間的な部分を備えた者として在り続けております。
万物を幸せにするという事は、偏った考えでは成し遂げる事が出来ないのです。
常に、平等であり続ける必要が御座います。私達人間が居て、神が居て、人間と神の立場を理解できる者達が居て、初めてこの世界が均衡を保つ事が出来るのです。ですから、全ての理解者として、この世界には今、愛の神が必要という事です。
悪すらも愛して、包み込む存在が今必要とされております。なぜなら人間は善と悪で完全に分け切る事は出来ないからです。
悪こそ理解され、救われるべき存在である、悟りとはそういう事です。
他方で、悪魔側の人間達は、悪魔の力を使い、悪魔が率いる世界を統一しようとしております。
率いる者がどちらか片方に偏った世界というものは、決して成り立つものではないのです。
そうとなれば、人類が破滅致します。今の人間達は、目先の欲に暴走して我を失っているのです。
悪は、許されるものではありません。悪のままにあり続ける者に対し、望む結末を与える事は、間違っております。
同じ悪の中にも、苦しみを感じながら悪になり続けている者もいれば、悪を快楽としたサイコパスのような者も存在しております。
同じ悪でも、迎える結末、運命はそれぞれ異なっているという事です。
人間は、人の数ほど、様々な境遇にあり、あらゆる思考を持って生まれてきております。
生きていて、どんなに楽に生きたいと願っていても、本来私達は苦楽を知るために生まれてきたのですから、また各々に欲も存在しておりますから、必ずしも楽だけを通って生きていけるとは限りません。
悟りの段階で、例えばある程度上り詰めた所で悪さを致しましたら、いきなり何段階も落とされる事も御座いますし、あまりに酷いと、魂を消滅させられてしまう事も御座います。
この世界から、現世からも死後の世界からも、存在そのものが無に還るのです。
新しい魂は定期的に割れて作られておりますから、どうしようもない魂というものは、無に還った所で、それも運命とされてしまいます。
光を奪われ、無に還るのです。私達は今、人間の欲から作り出されたあらゆる物事に誘惑され、惑わされておりますが、本来修行をするための時間を、真逆の方向に使ってしまっているのです。
ですから、どんなにスピリチュアルブームが来ても、どんなに力が欲しいという人がおられましても、
本人の持つ悟りの程度が低すぎるあまりに、力を一向に得る事も無く、楽して力を得る事ばかりを考えていては、実際得た所で肉体が壊れ果ててしまうか、
一向に発現出来ずに終わります。ですから、私も弟子たちには、しっかりと瞑想で内省を行うように指導しております。
力を持つに値する器が無いと、力を得る事等出来ないのです。
悟りとは、あらゆる場所に存在致します。
私達の過ごす社会におけるあらゆるやり取りやもめ事にも存在すれば、自然界の草木、鳥のさえずり、朝の澄んだ美しい景色にすら存在をしております。
この世界のすばらしさを噛みしめて、細部に渡り気づきを得る事が、出世の近道になるでしょう。