私たち人間には、この世に生まれながらにして、苦しみを課されております。
八苦と言いますが、以下のような苦しみが試練に含まれて、この世に生まれてきます。
「生苦」生まれることに起因する苦しみ
「老苦」老いていく事に起因する苦しみ(体力や気力など全てが衰退していき、自由が効かなくなる苦しみ)
「病苦」さまざまな病気や痛みの苦しみ
「死苦」死ぬことへの恐怖、その先の不安などの自覚による苦しみ
「愛別離苦」愛するものと別離すること
「怨憎会苦」怨み憎んでいる者に会うこと
「求不会苦」求める物が得られないこと
「五陰盛苦」五蘊(ごうん・・人間を成り立たせる五つの要素。色/肉体・受/感覚・想/想像・行/心の作用・識/意識 すなわち人間の肉体と精神)が思うままにならない苦しみ
これらは私たち人間には必ず与えられる苦しみでありますが、これらの苦しみには必ず私たちが抱いてしまう「欲望」が根源とされております。
本来はこの試練を乗り越える事も十分に大変であるのにもかかわらず、今の時代を生きる私たちは、本来あるべき私たちの姿に比べて、非常に心の貧しい生活を送っております。
それはなぜかというと、今の時代には私たち人間を悪い方向に引っ張っていく要因ばかりが増えていき、人間が本来持ち合わせている以上の欲望が膨れ上がった世の中であるからです。
欲望は、人間の心を孤立させ、独りよがりな生き方に導きます。
そのため今の時代を生きる人々は、他者を中々信用しない、都合の良い時にだけ利用しようとする浅ましくて甘い考えのもと立ち回るようになり、この世の中で生きる私たちは、お互いに疑心暗鬼になったり、不満を持ち合い、憎しみや妬みに溢れる世の中になってきているのです。
リスクがある時はなかなか動けずに、チキンレースのように周りの人間がまずは失敗するかどうかを確認しようとするにもかかわらず、今度は自分が独り占めをしようと思ったり、ずるいことをしようと思った途端に欲求を暴走させ、周りと競い合うように突然に集団ヒステリーのような状況になるのもよくある現象であります。
例えば近年の出来事で言えば、前回の緊急事態宣言が出た際の、買い占め騒動や、コロナに便乗した詐欺の横行などもそうと言えるでしょう。
不景気になると必ず犯罪が増えてくる現象も同様と言えるでしょう。
現代を生きる私たちは、生きる事だけでなく、自分自身の欲望に溺れて乾いた喉を潤す事に必死で、非常に苦しい生き方をしていると言えます。
ただ、それは一人が悪いということは決してなく、欲望が渦巻くこの社会が、先の不安を抱く人々の恐怖が、器でないにもかかわらず恐怖で支配して上に立とうとする人間たちが、それにより生まれる理不尽な格差が、そこから生まれるあらゆる立場の人間の負の感情が、あらゆる要因が連鎖して、私たち人間皆に欲望、すなわち苦しみが伝染しているのです。
懊悩呻吟(おうのうしんぎん)という言葉がございます。
これは、私たち人間が、色々なことを考えて苦しむことです。
先ほど述べたように、私たち人間の悩みや苦しみの根源は何かというと人間の欲望です。この苦しみが人々を襲ってくるのです。
欲望とは、自らの欲からくる理想や願いも含みますが、人はそれらをイメージし、幻想を抱きます。
そして、以前のブログにも記載はいたしましたが、その幻想のイメージに対する実際の現実世界はと言いますと、人は星の数ほど存在をしており、その分の願望や欲望も当然数えきれない程混在しているため、その一つ一つの願いに対して、望みが叶う者や叶わない者が勿論いて、白黒がはっきりともつかずにもやもやとする者も当然出て参ります。
そしてまたそれに対しても、各々の欲望からあらゆる感情が生まれてきて、その感情からまた一人一人の人間の行動が生まれ、それに対してまた悩み苦しむ人たちが出て参ります。
ですから、人間の欲求から成り立つ願望が根源となり、悩みや苦しみ、そして尽きぬ欲望に対する飢えが生まれるのです。
願望とは、自己中心的な願望のみならず、その人にとっての当たり前の望みも含みます。
一人一人には、天命があり、持って生まれた器というものも存在をしております。
一人一人が転生時に持ち越したカルマや、その人が今世で与えられた試練すなわち環境が当然存在しておりますことから、人間全員が同じものを得られるとは限らず、またその人自身がチャンスを掴むことができるかどうかの命運、そして実現させることができるかどうかの器にもかかっておりますから、当然一人一人の人生に違いは出てくるため、その人にとって当たり前と考える望みすら欲になる事もあるのです。
その考えすら欲深くあれば、果てがないという事です。
自分が成し遂げる事ができないのであれば、何かを失う事もございます。
そして、それをまた受け入れる事ができずに悩みや苦しみになる場合もあるのです。
私達人間は、その願望と実際のギャップに悩み苦しみ、そしてその根源は私達人間の欲求からくる願いであるのです。
他者を妬み羨む気持ちから、自分もそうありたい、自分はそれ以上でありたい。
自分さえ良ければその人などどうでも良いから、真似をしてしまおう、成り代わって立場を奪ってしまおう、目障りだから陥れてやろう、平気でそういう事をする人間も沢山おります。
また、人の欠点ばかり目につき、自分はまともであり優れていると過信する事、そして自分が欲しいものが手に入らないのであれば無理矢理にでも持っている人物から奪い取ろうとする勝手さ、独り占めしようとする執念など…私達人間の器は、限界が必ずございますが、欲望には果てが存在しないのです。
そして、欲望を抱く事は、私達人間は、簡単にできる事なのです。その成れの果てとして、人の欲望だけが無限大に暴走し、現代の悲惨な世の中が形成されて参りました。
霊能の力に関しても同じ事が言えます。
霊能の力を使えば、たとえば施術をすれば人の心を動かす事や霊体を祓うだけでなく憑依させることも、縁を結ぶ事も、切る事もできます。それ以外にもやりようによっては例えば人の悪事を明るみにする事や、精神の乱れを整えるだけではなく、逆に乱す事もできてしまうのです。
良い事が出来る、人を助ける事が出来る、ということは、悪い事も出来るし、人を陥れる事も出来てしまうのです。
ただ、霊能力は、己の欲望だけの為に得よう、使おうとすると、発現いたしません。
それは、力自体を品格のない使い方や欲望の為に利用しようとしたら撥が与えられるのです。
本来であれば、これは良い事に、他者を助け救う為に存在する力ですから、悪い事や欲望に力を使おうとしても、不可能なのです。
ですから、人を簡単に潰したい、貶めたいという者は、呪いや黒魔術に頼るのです。
なぜなら、呪いや黒魔術は悪魔の力を借りているからです。
悪魔は、人間の欲望に働きかける存在だからです。
彼らは人間に欲望を与えて欲望を膨らませたい為、欲望を抱いた人間に囁きます。
悪魔崇拝組織が蔓延る現代の世界においては、人間の欲望が最大限に膨らみ続け、果てのない飢えに苦しむ人々が絶え間なく出てきているのです。
悪魔たちも、エネルギーを必要としており、欲望を膨らませて、その欲望と自分達の存在に同調した者とは統合したいと望んでいるのです。
そこまで導くにあたり、人間の願いを叶えるべく力を使いすぐに実現させる事は、悪魔にとっては容易い事です。
元々は神のそばにいる存在であったからです。
人間は、目先の欲に誘惑され、悪魔を簡単に信じるようになります。
本来、願いを叶えるにあたり、人間には必ず試練が与えられます。そうでないと、学べないからです。
何も気づく事なく叶えたとしても、同じ失敗を繰り返し、意味がないからです。
一時的に叶えたように見せかけて、すぐに崩れ落ちるようなものはまやかしに過ぎず、また悪魔にすがった人間は、「同調」とみなされ統合や破滅が必ず一定期間をおいてやってまいります。
根本的に、悪魔に簡単に願いを叶えてもらおうとする事が間違いなのです。
他方で、神通力を用いる施術を行う場合は、事実ある事柄や運命を本当に変えていくものですが、必ずと言って良いほど、本人にも試練が与えられます。
それは、鑑定においても同じ事であります。
信じ続けて離れない意思、諦めない気持ち、信頼のもと、言われた事は必ずする事、逆にダメと言われた事は絶対にしない事、道案内にしっかりとその通りに進んでいけば、必ず成就するようには出来ているのです。
人は、依頼をすれば、お金を払えば願いを簡単に叶えてくれると思うかもしれません。
しかし、その先には自分自身との戦い、覚悟が勿論伴っております。
その経験を通してまた、学びを得て、今世の修行の段階を進む事も自ずと可能になります。
よく、鑑定に来ているだけで、運気がかなり上がってきたという声を多くいただきます。
それは、霊能者からの施術のパワーだけではなく、自分自身が運命を良い方向に切り開こうとしている為、自ら良いエネルギーや運気を引き寄せて、向上し続けていると言うことでもあります。
ここぞという勝負事に強くなった、ピンチを回避できるようになった、仕事が舞い込んでくるようになった、これらは自分自身のエネルギーや、それに伴った気のもちようや行動により得た成果でもあると言えます。
そういった方々は、やはり願いも叶えていっておられます。
私達人間の持つ感情、思念から出るエネルギーというものは、非常にわかりやすいものなのです。
一方悪魔は、現在は堕ちて悪しきエネルギーを放ってしまっておりますので、悪魔と呼ばれておりますが、本来は私達人間に限りなく同調した神の下部でありました。
ただ、人間の絶え間ない欲望と悪い意味で共鳴してしまって、堕ちてしまったのです。
ですから、悪魔崇拝の者達が悪魔を慕う理由も一理ございますが、実際私達人間というものは自分が一番かわいい弱い生き物ですから、自分たちの都合で悪魔を利用し、崇拝していたとしても、最後に残る存在は自分なのです。
悪魔の為に今すぐに死ね、と言われて、本当に死ねる者は居ない事でしょう。最後の最後で、人間は「助けてくれ」と願うのです。
悪魔もそれを見越しておりますから、人間のエネルギーだけを求め、その為に人間に欲望を囁くのです。同調したものだけの魂を奪っていく、それだけは許して欲しいという事なのです。
しかし、私達人間はとても弱い生き物です。強く囁いて来る欲望に自力で勝つ事は、かなり困難な事です。
ですから、エクソシストが存在をし、度が過ぎた悪魔達に対しても戒めとして封印をしております。
ただ、長らく完全消滅に関しては、悪魔側とも審議が繰り返されてきておりました。助けて欲しい、生き続ける為に見逃して欲しいと。
その経緯があり、悪魔を消滅させるのではなく、封印をしてきているのです。
しかし、現世においては、悪魔に魅せられ、それ以上に自発的に欲望に溺れた人間達の暴走も目に余るものがあります。
そして、悪魔も同様です。ハイブリッド化も横行し、無差別な憑依や犠牲が生まれ続けているこの現状は、許されがたいものが御座います。
そして恐怖と理不尽な制限に支配されたこの世界は、あらゆる存在が飢えを感じており、その為にまた、日々犠牲が生まれ続けております。
私達人間が変わっていく為には、変化を得る為にはどうすれば良いのでしょうか。
枉尺直尋(おうせきちょくじん)という言葉がございます。
これは、大きな利益を得る為には多少の戒めが必要という事です。
「枉」は曲げる事を指し、「尺」と「尋」はどちらも長さの単位でありますが、一尺を折り曲げる事で、八尺(一尋)を真っ直ぐにできれば良いという意味から来ております。
私達人間は欲求が強い生き物で、自分を顧みるにしても、どうしても主観が抜けずに甘い所がございます。
他者に指摘をされた所で、また自分自身が把握をしたところで、心からの気づき、悟りを得る事は到底難しい事なのです。
なぜなら人間にはどうしても、あらゆる状況において、自分自身の逃げ道のような甘い気持ちが必ず存在をしているからです。
そして、実際に自分が怖い目にあったり、苦しい目に遭わないと、最後まで他人事のように捉えていて、真剣に考えない場合もございますし、もしくは考えた所で経験をしていないと発想に至らず、一向に気づけない事もございます。稀に、挫折を経験しても、最後まで気づかない人間もいる事でしょう。
また人は、自分が目で見たものしか信じないにも関わらず、自分にとって都合の良いことは、噂でもなんでも簡単に信じようと致します。
私達人間は、あらゆる価値観を持っていて、あらゆる捉え方を致しますが、自分に一番甘く、都合の良い事以外は簡単に信じない、学ぶにも自発的に気づく事が出来ない、一度衝撃を受けて信じたりしても簡単に忘れる、そしてまた自分が見聞きしないからと信じない、こういった面を共通して持ち合わせております。
いくらその時に強くあれこれ非難をしても、次の時には「自分は初めから信じていました」と言うような事を自覚もなく平気で触れ回ったりもするのです。
私達人間とは、非常に都合の良い生き物であり、悪い意味で柔軟になりすぎているのです。
コロナウイルスに関しても同様で、警戒体制が緩んだ時期があったかと思います。どんなに危機を感じていても、どこかで必ず「油断」も訪れるのです。
その為いつの時代も、私たちは必ず何かを学び、乗り越える時には、何の犠牲もなく、何事もなく、という環境では成し得る事が出来ないのです。
勿論、時として都合よく信じる柔軟さが大切なタイミングもございますし、自分は助かりたい、と素直に他者を頼る事で救われるチャンスを掴む事もございます。
なぜならば、人間の欲望や願望は、私達が生きる上で必ず全員が持ち合わせるものであるから、全てが悪いとは言えないからです。
幸せになりたい、と願う気持ちは、誰しもが当然の事であり、幸せを掴むチャンスというものは、誰しもが必ず何度も気づかぬうちに与えられているのです。
それに気づいて掴む事が出来るかどうかです。
本来は、ある程度の願いは許されるものでございます。
ただ、現代を生きる私たちにおいては、自己中心的な欲望が膨らみすぎており、ずる賢さを極めすぎたとも言えます。打算的になりすぎたのです。
そして、本質がわからないとすぐに混乱したり、思い通りにしようと暴動を起こしたり、挙句には集団ヒステリーのように簡単になってしまうのです。
勿論人は、全てが上手くいくだけであると、視野を広げる事も省みる事もできない為、私達人間には挫折をする時、何かしらの戒めを伴う事は避けられないのです。
その状況の中で、いかに気づきを得るかという事です。
生きている中で挫折を経験した者は、改心するチャンスも与えられると言う事です。それを掴むかどうかも自分自身の器にかかっているということです。
気づけないのであれば、一生底辺にいるに過ぎません。
そして、それがいつまでも分からない者には最後まで戒めが御座います。
それすらが慈悲という事です。